もじゃもじゃと手を動かす

日々の思考のゴミ捨て場

3月31日のうな重

桜の季節に思い出すのは、何年か前に食べた、うな重とローストビーフの味。


それは社会人になる1日前の日だった。

すでに退職していたアルバイト先の上司に声をかけられて、同じく社会人になる先輩と上司の三人で、上野公園に花見に行った。


桜は満開で、当たり前だけど上野公園は満員御礼、みんなが思い思いにビニールシートを広げていて、正直もう場所取りなんて無理なんじゃないかと思っていた。

しかし、上司はするすると賑わう広場を抜けて、池の近くの、立ち入り禁止のロープが張ってあるほんの少し際のところに、ぽっかり空いたスペースをちゃんと見つけてくれたのだった。

上野公園であるはずは間違いないのに、あんまり人通りのない不思議な道ぞいで、池の向こうには人々の喧騒が聞こえた。


そこで食べたのは、上司が予約して取り置いてくれていたうな重と、自家製のローストビーフと、フランス産のワインだった。

わいわい騒ぐわけでもなく、とにかく黙々と三人で食べたうな重の味は、タレがこっくりと染み込んでじわじわと美味しさが舌に伝わってくるような、それはそれは丁寧に作られたうな重だった。

ローストビーフは真ん中が美しい紅色で、どうやったらこれだけ美味しく牛をローストできるのだろうと思うくらい、噛んだ時にじゅわーっと広がった旨味は、今でも忘れることができない。


三人で何を話したのかは、今では正直全然思い出せないし、あれからもう何年も、上司にも先輩にも会ってない。

でも、上司の振舞ってくれた素晴らしいごちそうは、味の如何もまだ対してわからなかった学生の小娘にとって、

これから出て行く社会で何かがあった時、この人は頼って良い存在だと思わせてくれるに足る、十分すぎるくらいの味だった。

たぶんそれを、普段は怖かった上司も伝えたかったのかな、と今になって思う。


食べ物で釣る、とか、そういうよこしまな話ではなくて、

美味しいごはんを、誰かと一緒に食べるという行為は、

時に言葉以上に相手と自分を信頼で結びつけてくれるのだということを、私はあの日のうな重とローストビーフから教わった。


だから私は桜の季節が巡ってくるたびに、鰻とローストビーフがどうしても食べたくなる。あの日に出来上がった信頼関係を、もう一度咀嚼してみたいと思う。

路地裏の異世界

昨年、大きく自律神経を失調してしまったので、

こりゃいかん、なんとかせねばと思い、前から興味のあったヨガに申し込んでみた。

 

家の近くの商店街の、路地裏に小さな雑貨店が連なる道があって、その突き当たりにヨガ教室はある。

 

先生は30代のお姉さんで、この商店街と、隣の県の整骨院でヨガ教室を持っているらしい。

 

最初の1時間はひたすら呼吸法。それからヨガのポーズを1時間とる。

私はなんの前提知識も持たないまま入会したので、ヨガが呼吸の仕方をこんなにしっかりやるということを知らなかった。

 

普段いかに自分が意識しないまま浅い呼吸をしていたのかに気づかされて、けっこうショックを受ける。

でも、お腹の下の方に集中して空気を入れていくと、確かに段々と身体が微調整されてゆく気がして不思議な気分だった。ヨガ前とヨガ後で、重心が変わるのも面白い。

 

先生は指導の時もとっても優しいのに、お腹をむやみにふくらませずに呼吸をさせる指導があって、その時だけ信じられない馬力で生徒の下腹や横隔膜をグイグイ押してくる。

人間の気迫みたいなものが、先生の手のひらから私の下腹にのしかかってくる感じ。とってもきついんだけど、先生が「いい感じ!」と快活に言ってくれるので、なんだか頑張れてしまうのも不思議。

 

ヨガのポーズは、こんな風に身体を構築するのは初めて!みたいな体位もあるが、それが意外とできた自分に満足できる瞬間が多い。

普段自分の身体の可動域の低さに絶望感するのも、ポーズをしたから気づけたのだ、と思うことにして、最近は家でもポーズをとるようにしている。

 

身体と向き合う、というのは一口に言ってもいろいろ方法があって、ヨガをしているときというのは、自分の身体が幽体離脱していろんな動きをしているところを観察している感覚に近い。

頭と身体が分離している感覚は、なかなか日常生活ではつかむ機会がないので、週に一度はこういう機会があっても良いのじゃないかな、とは思う。

 

週末の朝からヨガをして外に出るとき、静かだった商店街はすっかり店も開かれて賑やかになっていて、その喧騒の中に戻るという環境も、異世界から戻ってきたような気持ちになる。

 

 

私にとってヨガは、ちょっとした週末の冒険なのである。

写経的思考

心がもやもやしたときは、長文を考えることにしている。

 

意味もなくだらだらと、とりとめのないことを考え続ける、という行為は、軽い写経のようなものに近い。

論理的とか、わかりやすくとか、そういったものからは遠く離れて、ただ自分の心の中や、頭の底からふわふわと浮かんできた様々な現象を、できる限り垂れ流し続ける。お風呂や、ベッドの上や、電車の中で。

それは今日起こった出来事を物語風に思い起こす行為であったり、電車の中で目の前に座っている女性をドラマティックに描写する行為だったり、自分が自分以外の人間になったことを妄想する行為だったりする。

 

ここで重要なのは書き起こしたり、メモしたり、声に出したり、そういう具体的な、目に見える形にするのではなくて、とにかく頭の中で、もじゃもじゃと考え続けること。

今、この文章を打っているみたいに、形にしてしまうと、私の中でもう写経的な意味はなくなってしまって、ああでもない、こうでもない、と思考錯誤するようになってしまう。そうするともう、それは忠実な表現とは言えない。

 

本当は、たぶんそうやって少しずつ浮かんできたとりとめのない文章やストーリーをきちんと書き留めておけば、小説や随筆のひとつも書けるのかもしれない。逆に言うと、小説家や、脚本家、と呼ばれるひとたちは、そういった日々自分の頭の中に浮かんできた文章を、たぶん、そのままそっくりと創作できるひとたちなのだと思う。

 

どこにも記録せずに、ただただ日本語を浮かび上がらせていく行為は、正直に言うともっともやもやしてしまうようなものと言えなくもないし、これがすべて私の心をすっきりさせるものか、と言われると、そうでもない。言葉を考え付かないもどかしさ、みたいなものがどうしても(私の力不足ゆえに)出てきてしまうし、断片的に出てきたフレーズをきちんとつなげないのは、やっぱり悔しい。

 

でも、そういうことをしていると、だんだんと意識が遠くへ行くようになっていって、自分の中の、自分でも普段は見えていない深い深いところに、手が届くような気になってくる。

私はこんなことを考えていたのだ、ということが、想像もしていなかったところから顔を出すことがあったりして、それはそれで、新しい発見だったりもする。

 

結局は、自分と向き合う、ということを、かなりお手軽にやってしまっているだけなのかもしれない。がさつな向き合い方と言われれば、それまでなのかもしれないけれど、そういうことを考えている帰り道、電車の窓ガラスに映った自分の目は(自分で言うのも、おこがましいけれど)、これまでよりずっと濃い色をしていて、それを見れた日は、少し元気になって、家に戻れるのだ。

夢見る女たち

割とよく夢を見る方だし、夢の内容もはっきり覚えている方だと思っていた。

 

今日はぼろぼろのマンションに一人で住んでいて、布団に寝転がって携帯をいじっていたら、

窓の外を2機、飛行機が低く飛んでいた。

おかしいと思った私はカメラを起動して、その2機を撮影しはじめた。

案の定、すぐに飛行機はカーブをしようとして失敗して、向こうの住宅街に落ちて爆発・炎上した。

一部始終を撮影していた私は、それをテレビ局の動画投稿に送ったのだけど、

うんともすんとも返事が来なくて、パトカーや救急車の音も外ではせず、

どうして誰も反応してくれないんだろう?と不思議に思う、という夢。

 

でもこないだ、青葉市子さんのライブに行ったら、

青葉さんは尋常じゃなくはっきりとした夢を見ていて、

しかも、その夢を基に、新曲を作っていたのだった。

たしか、小川の流れている丘の上に神様がたっていて、

その神様の願い事をかなえてあげるために何かをしてあげる・・・

というような話だったと思うんだけど。

 

寝る前にどういう心理状態でいたら、そんなファンタジックな夢を見られるのだろう。

 

そういえば、作家のはやみねかおるさんも「夢水清志郎シリーズ」が大ヒットしたけど、

主人公の「夢水清志郎」という名前は、本人がはやみねさんの夢の中で自己紹介したものらしい。

クリエイティヴな人というのは、やっぱり寝ている間も何かを脳が作り続けているのかもしれない。

天才は、頭の中で考えていることを文字に起こす手間が惜しくて字が汚いって聞いたことがあるけど、それと似ているようにも思う。

 

あと、最近さらに驚いたのは、夢の続きを見られる人もいるっていうこと。

 

小さいころ見ていた「とっとこハム太郎」の中で、ハム太郎の飼い主であるロコちゃんが昼寝をしていて、
おもむろに起きて、「まだこんな時間・・・夢の続きを観ようっと」と言ってまた寝ていた時の衝撃は、たぶん忘れない。
そんなこと、できるひとがいるんだー!と思って以来、何回か夢の続きには挑戦しているのだけど、成功したことはまだ一度もない。

 

結局はアニメの中のひとだけできることなのかなーと思っていたら、
先日友人が「高確率で夢の続きを見られる」と言っていた。

 

これも一つの才能なんだろうか。

 

いつか自在に夢が見られるようになったら、
32時間くらい眠り続けながら、会いたい人や、行きたい場所をフル出演させてみたい。


あぁ、パプリカになれたらなーと、相変わらずの夢見がちな日々を送っている。

土曜日の病院、日曜日のワンピース

最近起こった休日のいろいろ。

 

同僚のお見舞いに行く

同僚が急性胃腸炎にかかって職場で倒れ、緊急入院をしてしまったので、そのお見舞いに行った。

事前に何か食べたいものある?と聞いたら、「7日間絶食しているから何も食べられない」と返事が来た。

驚いた。

急性胃腸炎って、とにかく絶食なんだなぁ。

ちょっと大きめの総合病院に土曜日に行ったら、案の定休診日だったので、がらんとしたロビーを進んで階を上がっていった。

ナースステーションにひとこと声をかけたんだけど、「あ、どうぞ」って、そのまま何も言わずに入り込んでも別に私たちは関知しません、という雰囲気で言われてしまった。大丈夫なのかな。とりあえず「訪問カード」に名前だけ書いてポストみたいな木箱に投函した。

 

身内以外のお見舞いって、正直そんなに行ったこともないし、同僚からはラインの返事も比較的早く来ていたので、入院しているとはいえそこまで大事ないと思っていたんだけど、

ドアを開けたら文字通り一回り小さくなった同僚がベッドにぐにゃりと横たわっていて、そこでさらに驚く。

自分と同世代の人間がここまで弱っている姿をあまり見たことがなかったので、ちょっと衝撃的な映像だった。

5キロ以上やせたという同僚の、細い細い腕から一本点滴の管が刺さっていて、ここからの栄養一本で一週間も生きながらえているというのがにわかには信じられなかった。人間ってすごい。医療ってすごいけど、ちょっと怖い。

「この点滴、結構高カロリーなんですよね」って看護師さんが点滴を取り替えていた。

同僚はまだ車いすなんかでは全然移動できなくって、倒れた時に持っていたペットボトルのお茶の中身もまったく減っていなかった。

それでも早く仕事に戻りたがる同僚をなだめすかして、療養に努めるよう説得して帰った。

 

セレクトショップのワンピースに弱い

弱い。めっぽう弱い。すぐ買っちゃう。

こないだ、普段あまり行かない街の、あまり歩かない通りで、ゲリラ豪雨をしのぐために入ろうとしたお店がセレクトショップだった。

2階に並んでいる白いリネンのブラウスとか、麻のニットとかがいちいちクリーンヒット決めてくる。

その並びの最後にやってきた黒い半袖のワンピースにノックアウトされた。

「黒いワンピース」、ニットやらコットンやら、安いのやら高いのやら持っているのに、結局手から離せなくてそのまま試着して、そのままカウンターへ。

もうこの店には一生来ないかもっていう思いとか、このワンピースを着てみたいっていう憧れとか、意外と買えちゃうかもっていう値段とか、

そういう色々な条件がだいたい3つくらい重なって、「買っても私の人生に失うものはない、むしろ買わなかった時に得る後悔がいちばんつらい」っていう境地にたどり着いちゃうと、絶対に後戻りできない。

だから結局買ってしまった。

案の定ものすごい満足感。

 

たぶん、こないだ資生堂の動画を見たのもちょっと影響しちゃってるんだと思う。

www.youtube.com

 

武井咲ちゃんの来ているワンピース、暗くてよく見えないけれど、最高だな…っていうのは伝わってくる。

suzuki takayukiの服は、いつか欲しい。

 

目だったことは特にないけど、なんだか色々と予定が入っていたということを忘れたくないので、少しずつ記録していきます。

ミネラルウォーターに味はしない

先輩に好きな人ができた。


私のいちばん大好きな、そして尊敬している先輩は

いつも笑顔が明るくて、何に対しても真面目だし、他人に向かってあからさまな差別や嫉妬をしない、素敵なひと。


一緒にご飯に行くたびに私はその先輩にどんどん懐いていって、休日に洋服を買いに行ったり、お泊まり会をしたり、旅行に行ったりした。ほとんどのイベントは私が誘っていたのだけれど、嫌な顔1つせずに、先輩は予定をあわせてくれた。


この間も、そんな風にして私が誘い、先輩を家に泊めた。

明け方まで呑んだくれてしゃべり倒した、その最後の最後に、先輩に好きな人がいるとわかった。


いまよく一緒に仕事をしている人で、もう2人で食事に行ったり、ドライブにも行っているらしい。


見せてもらった写真にうつっていた男の人は、ひょろっとしていて、別段、とびきり格好いい訳でもなかった。話を聞く限り恋愛経験が多いわけでもなさそうだったし、むしろ女性の扱いになれていなさそうだった。正直、この人のどこに惚れたんだろうと思った。

それでも先輩はもう、その人が何をしてても格好良いと思ってしまうらしくて、ダサいシャツを着てても、寝癖がほったらかしでも、たまにかけるメガネが汚れてても、全然構わないのだと言う。

文字通り恋する乙女になっていた彼女は、静まらない気持ちを抑えたいのと、それでも会うたびときめいてしまう衝動に苛まれていて、幸せな葛藤の最中にいるようだった。


素敵ですねぇ、とか、もうこっちから告白しちゃったらどうですか、とか、当たり障りのない恋バナをしながら、思考はひとつのどうしようもない疑問に収斂していく。



どうしてそんなに人を好きになれるんだろう。何がそんなに楽しくて好きになっちゃうんだろう。



好きな友だちの恋バナを聞くのは、楽しいけど、ちょっとツラい。

それは、私と彼女の嗜好が、突き詰めれば決定的に違うってことを、自覚させられるからだと思う。

私たちは趣味や価値観や、笑いのツボが同じで、だから仲良くなったはずだった。

多分この後もずっと仲良しで、変わらないことだと思ってたんだけど、

何回見ても、いくら話を聞いても、

彼女の好きな人に私が共感できないということは、私と彼女の価値観はそこで違うってことなんじゃないか。

私と彼女はつまるところ、まったくの別人なのだ。


当たり前だけど。でもなんだか少しさみしい。


素直に、自分の好きな友人に好きな人ができたことを喜べればよかった。

私の好きな人が私を好きじゃなくても、好きな人が幸せならそれでいいんですって、カードキャプターさくらに出てくる知世ちゃんみたいに、そんなふうに綺麗なことを思えれば良かったのに。


しょうもない独占欲をほったらかしにできない私は、みみっちい嫉妬をうだうだと転がし続けながら、喉が渇いてミネラルウォーターをぐびぐび飲んだ。

先輩にも渡したら、私もちょうど喉が渇いてたの、と言って

先輩もミネラルウォーターを飲んだ。


もう寝ましょうか、と言って私は電気を消した。

私は味のしない水を飲んだけど、彼女にとっては別の味がしてるのかもしれないな、と思いながら。

ひとり暮らしの清少納言

スーパーに、早くもアメリカンチェリーが並んでいた。

もう初夏なのね、と思う。

 

スーパーで季節を感じるようになったのは、ひとり暮らしを始めてから。

春はたけのこや、タラの芽や蕨などの山菜コーナー。

夏になると、トマトやナスの色がぐっと濃くなるように思う。

秋はいも。さつまいも、山芋、あとはかぼちゃ。ホクホク、という文字の踊る季節。

冬は一気に鍋祭り。白菜、白菜、白菜、そしてかぶとか、とうがんとか、煮込みたくなるもの。

私はこまめに通うタイプではなく、一週間に一回まとめ買いをするタイプなので、季節の進みを感じる幅が大きいのかもしれない。そういえば、自然界の季節は、だいたい5日間で進んでゆくと聞いたこともあるし。

 

スーパーでもうひとつ気づいたことは、母の嫌いな野菜。

アボカドはてっきりカフェやレストランなどでしか提供されない特別な野菜だと思っていたのだが、

今や野菜の陳列棚に我が物顔で並んでいる食べ物だったとは、自分が通うようになって初めて知った。

家の食卓では一度も出たことがなかったので、母に聞いてみると、実はずっと前から嫌いだったと告白された。

あのねっとりとした触感と、独特の味が受け付けないのだそうで、

実家の食卓にアボカドエッグとか、コブサラダとか、アボカドサーモン丼とかがお目見えすることは今後もない。

 

ひとり暮らしをしていてもっとも幸せなのは、お風呂の時間が制限されないことと、トイレに行く時刻がだれともかぶらないこと。

お風呂に入るまでは面倒くさがるくせに、一度はいるとゆっくり湯船につかってしまって時間を食うやっかいな性格のため、実家では疎まれていた私のお風呂タイムも、ひとり暮らしをしてしまえば、誰にもとやかく言われないのは本当に、本当にうれしい。

最近はラジオを聴いたり、携帯をお風呂に持ち込んで(ジップロックに入れる)動画を見たりしてしまうので、さらに入浴時間が長くなってしまったが、入浴剤を入れてどかっと湯船を占領して入るお風呂は気持ちいい。

 

お風呂に入っている間、洗濯器を回すことが多い。

ベランダが狭いのと、大通りに面していて汚れそうなので、洗濯物はもっぱら浴室で干しているのだが、

お風呂からあがったあと、ラフな格好で浴室に洗濯物を干している時間は、世界でいちばん自由なことをしている気分になる。これもきっと、ひとり暮らしの特権。

 

 

トイレの時刻が被らないのは、些細なことだがしみじみ幸せに感じることがある。

実家暮らしをしているとき、父ととにかくトイレの時間が被ることが多かった。

朝、家を出る前と、夜、寝る前。

顔だけじゃなくて、生理現象まで似るとは、親子とはなんと恐ろしい生き物なんだろう。

もう今は、トイレの扉の前で父とくだらない喧嘩することもないのだけれど、

トイレに入ると時々、父ももしや今、実家のトイレにいるのではないかと考えてしまう。

 

 

ひとり暮らしは、いくつになっても発見が多いし、日常の些細なことに考えを寄せられるし、何より楽しい。

いつ終わるのかはわからないけれど、もう少し続けていたら、

枕草子ぐらいの随筆は、かけるような気がする。