もじゃもじゃと手を動かす

日々の思考のゴミ捨て場

写経的思考

心がもやもやしたときは、長文を考えることにしている。

 

意味もなくだらだらと、とりとめのないことを考え続ける、という行為は、軽い写経のようなものに近い。

論理的とか、わかりやすくとか、そういったものからは遠く離れて、ただ自分の心の中や、頭の底からふわふわと浮かんできた様々な現象を、できる限り垂れ流し続ける。お風呂や、ベッドの上や、電車の中で。

それは今日起こった出来事を物語風に思い起こす行為であったり、電車の中で目の前に座っている女性をドラマティックに描写する行為だったり、自分が自分以外の人間になったことを妄想する行為だったりする。

 

ここで重要なのは書き起こしたり、メモしたり、声に出したり、そういう具体的な、目に見える形にするのではなくて、とにかく頭の中で、もじゃもじゃと考え続けること。

今、この文章を打っているみたいに、形にしてしまうと、私の中でもう写経的な意味はなくなってしまって、ああでもない、こうでもない、と思考錯誤するようになってしまう。そうするともう、それは忠実な表現とは言えない。

 

本当は、たぶんそうやって少しずつ浮かんできたとりとめのない文章やストーリーをきちんと書き留めておけば、小説や随筆のひとつも書けるのかもしれない。逆に言うと、小説家や、脚本家、と呼ばれるひとたちは、そういった日々自分の頭の中に浮かんできた文章を、たぶん、そのままそっくりと創作できるひとたちなのだと思う。

 

どこにも記録せずに、ただただ日本語を浮かび上がらせていく行為は、正直に言うともっともやもやしてしまうようなものと言えなくもないし、これがすべて私の心をすっきりさせるものか、と言われると、そうでもない。言葉を考え付かないもどかしさ、みたいなものがどうしても(私の力不足ゆえに)出てきてしまうし、断片的に出てきたフレーズをきちんとつなげないのは、やっぱり悔しい。

 

でも、そういうことをしていると、だんだんと意識が遠くへ行くようになっていって、自分の中の、自分でも普段は見えていない深い深いところに、手が届くような気になってくる。

私はこんなことを考えていたのだ、ということが、想像もしていなかったところから顔を出すことがあったりして、それはそれで、新しい発見だったりもする。

 

結局は、自分と向き合う、ということを、かなりお手軽にやってしまっているだけなのかもしれない。がさつな向き合い方と言われれば、それまでなのかもしれないけれど、そういうことを考えている帰り道、電車の窓ガラスに映った自分の目は(自分で言うのも、おこがましいけれど)、これまでよりずっと濃い色をしていて、それを見れた日は、少し元気になって、家に戻れるのだ。